令和2年(2020)12月16日【第13号】

前回12/6の勉強会。
項目ごとに補足したかったのですが

あまり付け加えるとダラダラと冗長的になってしまうため
政治的なニュアンスになってしまうのも嫌ですし

そんなこんなで個人的に
消化不良で終わってしまいました。

この場を借りて
ちょっとおさらいしておきます。

「12/6 こうとくにんげん塾」

渡部昇一・「時代」を見抜く力 〜その3
令和2年12月6日(日曜日)月次祭
こうとくにんげん塾 #273 より。

—(抜粋ここから)

<騎馬型社会と農耕型社会のゆく末>

騎馬型社会は拡大期にすばらしい勢いで伸びるが
アメリカでは女性のフルタイムの職場への進出増加
離婚が簡単になってきている点など

いずれもかつての蒙古(もうこ)の騎馬帝国の
瓦解の状況と酷似してきている。

歴史の型は反復して現れるのである。

—(抜粋ここまで)

アメリカ=騎馬型社会
日本=農耕型社会

ということで

騎馬型社会は良い時は良いけれども
崩れる時も速い。

現在も続く
アメリカ大統領選の混乱も
この話と無縁ではないでしょう。

—(抜粋ここから)

子供をよく育てる母がいなければ
社会の活力の持続は難しい。

農耕型社会では
女性の地位は低いが母の地位が高く

従って家族の結合は強くて
強靭(きょうじん)な文化保守力を持っている。(P.102-104)

—(抜粋ここまで)

私は仕事柄、私立の中学校・高校を
訪問する機会が多いのですが

最近は女子校が不人気になってしまい
定員割れが続出しています。

そこからいち早く脱出して

例えば
かつての「嘉悦女子」は江東区に移転して「かえつ有明」
浅草橋の「日本橋女学館」は「開智日本橋」という風に

共学化と進学校化を成し遂げ
急成長している学校もあります。

北総線の車窓から見える、松戸の「聖徳女子」も
来春から「光英ヴェリタス」に改名して共学化します。

そんなこんなで
女子校そのものが絶滅危惧種と化しているわけですが

その聖徳女子は「女子教育は国の根幹」ということを
私に気づかせてくれた学校でもあります。
https://kj-lab.net/archives/705

—(抜粋ここから)

<騎馬型民族は自由が大きい>

騎馬型民族は自分が望まない遠征から自由に抜けることができる。
しかし、あまり勝手に抜けるようでは帝国が維持されない。

騎馬型国家には偉大なリーダーが必要であり
成員に支配を受け入れる心構えもなければならない。

自由は騎馬型社会の長所であるが
度を越して何人(なんびと)も支配しえない状況が現出することも有り得る。(P.104)

—(抜粋ここまで)

自民党・公明党・共産党といった古典的な政党(農耕型)が長続きし
民主党系の野党(騎馬型)が離合集散を繰り返してしまうのも

日本が「農耕型社会」から「騎馬型社会」へ
移行しつつあることの象徴ではないでしょうか?

—(抜粋ここから)

<騎馬型能力社会は、長期そこに住むには辛い>

田中首相とニクソン大統領は同じ頃に同じ様な退陣を余儀なくされたが
ニクソンがボロボロに疲れているのに、田中は若々しかったという批評を読んだ。

猛烈に人間を消耗させる型の社会は
ある時点から成員に無気力を生むことにはならないか。

世界がこれ以上の戦争に耐えることができないとすれば
何が何でも「和」を保たなければならない。

農耕型民族ならそういう状況を受け入れる心理的・歴史的基盤があるが
騎馬型の場合は解体につながらないか。

騎馬型社会としてのアメリカの前途を占うのは早すぎるかもしれないが
ジンギスカンの草原帝国と構造の深層において同質であり

その解体の可能性も一応は考慮に入れておくべきであろう。

—(抜粋ここまで)

ここで
11/15新嘗祭の勉強会資料を再読しましょう。

—(抜粋ここから)

家康が立てた大方針の一つに厳密な長男相続制度がある。

賢愚(けんぐ)に関わらず長男が全財産を相続するのであるが
これほど徹底した能力無視と年功序列は考えられない。

能力により天下を取った家康は180度方向を変え能力を全く無視する方針に出た。
極端な例が九代将軍家重である。

八代将軍吉宗は英明であり幕府中興の人といわれているが

その長男の家重は愚鈍であり
幼少の時に酒と女の味を覚えたため健康を損ない脳を害して言語不明瞭となった。

これに反し弟の宗武は馬術によく弓術によく
師に舌を巻かせた英才で『古事記詳説』以下、多くの著作すらある。

酒色に淫した長男家重と、文武両道にずば抜けた次男の宗武を並べた時
父の吉宗の愛が次男の宗武に傾いたことは当然である。

しかし、
吉宗は家督相続に関しては迷うことなく長男を立てて九代将軍にした。
理由は明らかである。

「もし予が才能と人物によって宗武を次の将軍に立てるならば
日本中の大名にお家騒動が起こる」というのであった。

農耕型・反能力主義的思想の極致である。

家重のような者でも長男であれば将軍になったから
幕府の基礎が揺るがなかったのである。

—(抜粋ここまで)

この話はとても重いです。

いまの日本社会は能力主義で能力の高い者が制する社会、
勝ち負けの格差が明確になる社会
つまり騎馬型社会に移行しつつあるわけですが

そんなことをしていたら
国が疲れ切って疲弊してしまうよ、と。

「競争」を旨とする「新自由主義」なんて言葉も昨今耳にしますが
菅首相は新自由主義に近い考えとも言われます。

そろそろ「それってどうなの?」という所で

今まさに時代の転換点(考えるべきポイント)に
私たちが置かれていることは間違いないでしょう。

—(抜粋ここから)

一言付け加えておけば戦後、新しい倫理や法律として登場したものは
戦前のそれより進歩したものであると簡単に考えてはならない。

戦前の方は農耕社会型倫理であり
戦後にアメリカあるいは国連からもたらされた倫理は騎馬社会型倫理である。

活動の舞台が無限に広がっている時は
騎馬社会型の倫理が断然すぐれているが

一度そのような状況が消えると
その社会を速やかに解体する方向にも働く原理であることを念頭において
今後のアメリカを眺めたいものである。

それは日本の生存の知恵にも関わってくるであろう。(P.104-106)

—(抜粋ここまで)

海外の価値観が優れて日本が遅れているのだ、

という無意識の劣等感のようなものが
何となく私たち日本人にあるじゃないですか。
(自虐史観といいます)

それは優劣の違いではなくて

アメリカ=騎馬型社会
日本=農耕型社会

という社会構造の違いだということを
今、見つめ直すべきなのかもしれません。

—(抜粋ここから)

<日本は私的信義優先社会>

日本の会社の構成原理には
原始コミュニティの精神が多分に入り込んでいる。

この日本型原始コミュニティは基本的に農耕型であり
騎馬型のジンギスカンの蒙古と対照的である。

日本のような農耕型国家においては
「和」が最高の原理であり

和を乱す時は正義が正義でなくなるような集団の集まりから
国が成り立っている。

例えば、駐在所の警官につかまった村民の田吾作が

他の村民たちの密造酒のことをベラベラ喋ったり
他の人の選挙違反をばらしたりしたらそれは村への裏切りである。

「たまたま捕まった田吾作は運が悪かったのだ。
罰を受けて帰ってくればよい。何もばらさないで帰ってくれば立派なものだ」

ということになる。

知っていたとしても言わないのが
コミュニティの道徳であり不文律である。

それは法律よりは何千年も古いものであり
日本人の毎日の生活と結びついている。

どちらかを選べと言えば

それは誰が作ったか得体のしれない法律よりは
毎日の生活で積み上げた道徳と不文律に
従うに決まっているではないか。(P.157-159)

—(抜粋ここまで)

以前、ラジオ番組で建設会社の談合のニュースを取り上げて

「日本はなぜいつまで経っても談合がなくならないんですか!」
と若手出演者が憤っていたのですが

共演したベテランジャーナリストが

「いやあ、日本はそういう国なんだよねえ・・・。」

と、ボソッとつぶやいて
このニュースを締めていたのを思い出しました。

出典:「時代」を見抜く力〜渡部昇一的思考で現代を斬る(渡部昇一・著、育鵬社)