令和2年(2020)6月17日【第1号】

「宗教の本質は縛ること」

「宗教」は英語で「Religion(リリージョン)」といって、re(繰り返し)+ligion(戻る)と分解されます。
「戻る」というのは仏教でいう「帰依(きえ:拠り所にする)」と解釈してよいかも。繰り返し拠り所にするから、心のバックボーンということで「宗教」。

更に「ligion」の中には更にラテン語の「ligo」が含まれ、これは「縛る」という意味だそうです。
ということは「Religion(宗教)」の本質は「縛る」ということかもしれません。

「お祓いをしないと救われないんじゃないか」「ご祈願をしないと成功しないんじゃないか」これ全て「ligo(縛る)」です。

神道の学校では「神職は、神と人とのあいだの仲取り持ち(仲介者)である」と教わるのですが、現代社会において実際のところは縛られた消費者心理につけこんで<お祓い><祈願>をして食べている中間搾取業者ともいえるわけで「神職は、神と人とのあいだのお邪魔虫」が真相ではないか、と。

そんなこんなも含めて、ギトギトと脂ぎった宗教ではなく、ふと来たい時に立ち寄り、神さまと訪れる人が直接結ばれるような、そんなきっかけとなる小さな神社でありたいと願うわけです。

「五穀さまとは何か」

鴻徳神社のご祭神は「五穀(ごこく)さま」とお呼びしていますが、御扉の奥にあるご神体の掛け軸には「五穀大明神」と書かれています。「稲荷じゃないの?」「日本神話に登場する大宜都比売(おほげつひめ)のこと?」など、色んな疑問も持たれやすいのですが、歴史的な考察はまだまだの段階であり、これまでに分かったことは、本メールで少しずつ書いていこうと思っています。

で、私個人はご祭神に特定の意味合いを持たせることが好きではなく、「この神様は縁結びの神様だ」とか特定の機能を人間の分際で神様に押し付けて人間がまた商売の材料にするのは違和感をおぼえています。

ただし、そうは言っても八百万(やおよろず)の神と呼ばれるように古事記や日本書紀を見るとさまざまな専門性をもった神々が登場することも事実であり、神様によって得意分野はあるのだろうな、という気はしています。

「五穀さま」はどうなのか、と見た場合に、
<食べ物に強い>神様だということは過去の経緯、実体験からして言えるようです。「稲・麦・粟(あわ)・稗(ひえ)・豆」という狭義の五穀ではなく、<食の恵み>つまり<人間が食べていくこと(食いっぱぐれない)>ことに「五穀さま」は得意分野をお持ちである気がします。

もう一つは、これは今後の本メールでも詳細を書きますが、<導き>を与える神様であること。
五穀が芽を出して、成長して食糧と化す。その生育のエネルギーそのものが「五穀の神の力」ということであれば、自分の中に芽生えた心の種を成就させるエネルギーを与える力、つまり<導き(インスピレーション)を与える力>こそが「五穀さま」だと言えます。

本メール巻末の署名欄にも「いのちをつかさどる、五穀さま」とキャッチコピーを記していますが、<食べていくこと>と<生きることの導き>、つまり<いのち>そのものを司っておられるのが「五穀さま」ではないか、と考察している訳です。