「中今」
神道の基本的な考え方のひとつに
「中今(なかいま)」というものがあります。
過去の集大成が「今」であり
未来の種まきをしているのが「今」。
だから今、目の前の
ヒト・モノ・コトに向かって全力投球する。
これが「中今」です。
予備校講師の林修先生の
「今でしょ」が流行語になりましたが
神道的にいうなら
「中今でしょ」
となりますね(笑)
◆
ひとつの取り組みに
知恵や力を振りしぼって精一杯取り組んでいると
経験だけでなく、「勘」のようなものが養われます。
こうしたら、上手くいく
こうしたら、駄目になる
という風に
成功パターン、失敗パターンの
見通しも何となくついてきます。
これを「直感」と言いますが
その直感が当たりやすい状態になってくる。
直感が当たるということは
自分が地球のリズムと波動が近くなっている
ということであり、
「今でしょ(中今でしょ)」を追求する生活は
つまり「神ながら」の生活そのものだと言えるわけです。
困難のなかにあって困難をすり抜けていくような
偶然のようにうまくタイミングをつかんでいくような
それが別の言い方では
「神さまのおかげ」と言うのですが
「神さまのおかげ」は
神さまに祈るから得られるのではなくて
自分が今、目の前のヒト・モノ・コトに
全力投球した結果だ、と。
◆
「ギリギリの崖っぷちを落ちそうで落ちない道が神ながらの道」
と前回書きましたが
それは、そういうことだろうと思います。
「二宮尊徳と中今」
(抜粋ここから)
尊徳は夏、ナスを口にしてその年の不作を予言しました。秋ナスのような味が強くしたので
「太陽がすでにその年の光を使いつくした」しるしであると告げました。尊徳はただちに、その年の米の不足を補うために
一軒に一反の割合でヒエをまくように村人に命じました。次の年、近国はことごとく飢饉に見舞われたにもかかわらず
尊徳配下の三村では、一軒なりとも食糧の不足で苦しむところは出ませんでした。「誠実の人は、前もってことを知ることができる」とあるように
わが指導者は予言者でもあったのです。『代表的日本人』(内村鑑三・著、岩波文庫)
(抜粋ここまで)
二宮尊徳は「勤勉」であったと言われますが
◎薪を運びながら本を読んだり(時間の立体的活用)
◎荒地を菜種油のとれる畑に変える(無から有を生む)
常に頭脳フル回転で、合理的な人間生活を追求していたのですね。
それってつまり「中今」の追求です。
◆
尊徳がナスを口にしただけで飢饉の発生を言い当てたのは
尊徳が霊能者でも神がかりだった訳でもなく
「直感力」を行使できる状態になっていたということなのです。
不作の波動を直感により検知して
ギリギリの崖っぷちを渡り抜けた。
まさに「神ながらの道」そのものではないでしょうか。
kininaru「お神酒」
H.28「花垣」にごり(福井)
H.29「雪中梅」本醸造(新潟)
H.30「上善如水」濃いめ(新潟)
H.31「花の香」701(熊本)
R.01「菊水」大吟醸(新潟)
これは近年の正月三が日のお神酒リストです。
日本酒に馴染みのない女性が口に含んで
「美味しい!」と感じていただける甘めのお酒を中心に選んでいます。
現在、月次祭では
「生原酒 ふなぐち菊水」を使用していますが
酒好きには嬉しいものの、ちょっとアルコールが強いですね。
◆
年明けあたりから
低アルコールに切り替えようと思案しています。
候補のひとつが「双子座のスピカ」(滋賀・福井弥平商店)
https://www.haginotsuyu.co.jp/archives/1554
なかなかお洒落です。
純米酒なのに、淡いワインの味わい。
実業家の斎藤一人さんは、お神酒(おみき)について
「うれしき・たのしき・ありがたき」の3つの「き」だと言っています。
時代の要請もあり
神社でお酒を提供することも厳しい時代になってきましたが
何らかの形でお神酒の直会(なおらい)を続けたいと思っています。