常識とは「中庸」

渋沢栄一によると、常識とは「智・情・意」に分けられるといいます。

「智」つまり知恵が発達していなければ先を見落とすことが出来ず、物事の善悪やメリット・デメリットを見抜けない。しかし「智」ばかりが発達してしまうと、他人を蹴落としてでも自分の利益を守ろうとする、思いやりのない人間になってしまう。そこで思いやりの力、「情」が必要となる。さて、感情は時にはそれだけで暴走することもあり、感情をコントロールするためには「意(意志)」が欠かせない。そして、今度は意志ばかりが強すぎて「情」「智」が伴わないと、単なる頑固者になってしまう。

強い意志の上に聡明な知恵を持ち、これを情愛で調節する。更に三つをバランスよく配合して成長させてこそ、初めて完全な常識となる。

「あの人は常識が無い」「非常識な行動だ」といった言葉は以前はよく聞かれたものですが、最近は「常識って何?」「常識って誰が決めたの?」「自分にとっての常識が常識だ」という風に、そもそも常識とは何か?という基本的な観念が養われずに年齢を重ねてしまう世の中になっています。

常識は英語でcommon sense(コモン センス)と言いますが、「common=共通の」「sense=感覚」であって、バランスのとれた感覚を指す言葉ということが分かります。

渋沢栄一は、常識とは「智・情・意」がバランスよく配合した感覚が常識である、と常識の正体を説いているわけです。

と見ていきますと、バランス感覚というのはまさに、神道における「中庸(ちゅうよう)」であり、長すぎず短すぎず、強すぎず弱すぎず、その程よいところを中庸と呼ぶのであれば、常識とはまさに「中庸」そのものであると言えるわけです。

参考文献:『現代語訳 論語と算盤』(渋沢栄一・著、守屋淳・訳 ちくま新書)

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